時知らずの花

始発待ちアンダーグラウンド ムラタ・ヒナギクさんの独り言

当たり前の毎日

 

 

 

 

 

幼稚園の先生だったときに先輩先生から言われた『普段できている子をしっかり褒める』という言葉。この言葉を僕は今でも大切にしている。

 

普段出来ていない事が出来るようになると人は『よくやった!すごい!偉い!』となる事が多いだろう。できなかったことができるようになるのは凄いことだ。褒められる。

それこそ幼稚園とかでは片付けが上手にできなかったり、集団行動が苦手な子もいる。できない事は決して悪いことではなくて、一緒に学んでいければいいのだ。そしてそれが出来るようになるとやはり目に付きやすい。やったね!って沢山褒めたくなる。

ただ、その隣にはもう既にそれらが出来ている子がいるのだ。でも視界からは埋もれる。先生の頃本当に感じた、『普通』の子は見つけようとしないと気づけない。問題が無いから叱ることもない。この子はできて当然、という建前が勝手についてしまっているのだ。

でもその当然なんてものはなくて、その子だって考えて行動してその技術を身に着けた。ものを片付ける、静かに座って待つ、一列に並ぶ。たったそれだけなのかもしれない、たったそれだけだけど、当たり前ではない。今までの努力を見つけてあげる、それが大切なのだと気づいた。いつもありがとう!と伝えるとエヘヘと子どもたちは照れくさそうに笑ってくれた。

先輩先生から言葉を貰った以降、全員に1日1回は必ず『褒め』と『感謝』を伝えるように心がけていた。園児達は喜んでくれて進んで色々と協力してくれるいい子達ばかりだった。誰だって『褒め』は嬉しいものだよな。

 

僕はどちらかというと器用貧乏な方で、勉学以外の事は少し頑張れば人並みには出来ていた。でも褒められることはあまりなかったのだ。何故なら特化してできる物は何も持っておらず、まぁまぁ出来る人に埋もれてしまっていたから。

中学校の合唱コンクールで指揮者賞というものを3年連続で取得した。校内のコンクールとはいえ受賞できるというのは嬉しいものである。だがしかし、3年目は何故か受賞者は2人いた。僕ともう1人。名前を呼ばれ、拍手の中登壇して賞状を受け取ってもなんだか嬉しくなかった。自分だけじゃないことへの悔しさのほうが喜びよりも何倍も強かった。

もう1人の子はとても褒められていて泣いて喜んでいる。僕の周りにはそんな言葉はこなかった。2年連続でそれまで取得していたので『ムラタは取れて当たり前』になってしまっていたからだ。

僕は笑えなかった。周りは僕が元々持ち合わせてるモノだと勘違いをしてくれていたのかもしれない。そんな才能なんてあいにく神様は持たせてくれなかったのに。今の性格なら褒めて褒めて〜と友達におねだりできたかもしれないが、その頃の中学生特有の意地っ張りな僕は『おめでとう』ともう1人の子に伝え、帰ってからそっとひとりで泣いた。自分で自分を撫でる。名脇役を演じられた気がした。

たかが指揮者、たかが中学校内のコンクール、誰でもできる。それでも、それでも悔しかった。当たり前になるのが意味がわからなかった。何度も聴いて何度も家で練習して、それでも『いいよね、できる人は』になるのだ。何故だ?できないから努力して人前では出来るようにしたらこれだ。またダントツになれなかった。また突発的になれなかった。この時の僕はきっと誰かに認められたくて、褒められたかったのだと今になって気づいたのだ。

 

出来るは当たり前じゃない。生まれてから何でもこなせる人なんていない。色々学んで生きてきている。

どうしてこんな話をしたくなったのかというと、僕が褒められたいとかじゃなくて、周りのそういう行動にみんなが気づいてほしいのだ。学校でも会社でも家でも、誰かがやってくれていることは何も当たり前なものなんてない。毎日誰かの支えで生きている。

憎たらしい事も嫌な事も沢山あるだろう。怒りが、哀しみが耐えない日もあるだろう。そんな時に誰かに、そして自分自身に褒めを与えてあげればいいのだ。アナタは立派だよ。

 

今日もみんなありがとう。生きててくれてありがとう。これを読んでくれていてありがとう。

今日も僕偉い、一生懸命生きてて偉い、いっぱい考えられて偉い。いい子。

 

そいでは、おやぽみ。